パーソナリティについて考える

サブタイトルが気に入って、
読み始めた。

「障害」を「個性」に変えるために

だって。

病気でなく、それを個性として認める、と。
なかなか、いい言葉だが、難しいことだろうなぁ。

パーソナリティ障害がわかる本: 「障害」を「個性」に変えるために、 岡田 尊司


以下、引用します。

知識がないと、一体何が起こっているのかさえわからないものです。ましてや、どのように接すればいいのか、どのように改善を図っていけばいいのかは知る術もなく、間違った対応をして、どんどん事態をこじらせてしまうことも多いのです。

実際、パーソナリティ障害の人も、もともとそういう「性格」だったのではないのです。何かの挫折や躓きを契機として様子が変わったようになり、性格や行動の問題が極端に出てきたということが多いのです。
 また、パーソナリティ障害は治療的な関わりやさまざまな働きかけや体験のなかで、時間はかかるけれどもよくなることが多いのです。難しいケースもあることは確かですが、一般に考えられているよりも改善の余地は大きいのです。

人は程度の差はあれ、パーソナリティの偏りを抱えています。ましてや現代人は...さまざまな要因によって、パーソナリティ障害的な傾向を抱えやすくなっているのです。それを切り捨てや排除の論理で対処しようとしても、何の解決にもならないことは明らかです。むしろ、誰しもが抱え得る問題として考えていくことが必要なのです。

極端さというものは、どちらに向かっても、結果的にどれも困った事態を引き起こすという点では似ています。責任感がなさ過ぎるのも、責任感があり過ぎるのも、それぞれ性質は違いますが、自分や周囲を苦しめることになりやすいのです。

パーソナリティ障害に共通して見られる基本症状の一つは、両極端で二分法的な認知に陥りやすいということです。全か無か、白か黒か、パーフェクトか大失敗か、敵か味方かという、中間のない二項分立に陥ってしまうのです。

「抑うつポジション」を避けるために、強がったり、居直ったり、逆に攻撃的になったりする心のメカニズムを「躁的防衛」と呼びました。落ち込みを避けるために、カラ元気を出す状態とも理解できるでしょう。

躁的防衛は、生きていく上である程度必要なものです。しかし、それが病的な形で行き過ぎたものとして出てくると、さまざまな問題を引き起こすことになります。自分を振り返る目を持てなくなり、強気になり過ぎて暴走してしまうのです。
 しかし、ストレスの多い現代社会で生き抜いていくためには、人々は多かれ少なかれ、無理な躁的防衛を強いられます。「がんばれ」「ファイト」といった掛け声は、ある意味、「躁的防衛しろ」と呼びかけているわけです。

自己愛がうまく成長していないと、自分を本当の意味で大切にできないのです。自己愛が、目先の欲求を優先して満足を求める段階に、留まっていることもあります。いわゆる「自己愛的」というのは、そういう状況を指すのですが、その場合も本当の意味で自分を大切にしているとは言えません。大切にしているようで、実は損をしているということがよくあるのです。

自己愛障害が極端になると、ある部分で過剰に自分を守ろうとしたり、自分にこだわり過ぎる一方で、別の部分では自分を過度に粗末にするというアンバランスが起こるようになります。

パーソナリティというものは、その人個人のものというより、他者との関わり方のスタイルという面をもちます。他者との関わり方が、自分自身との関わり方にも直結しています。頭で考えると、まず自分自身との関係があって、それから他者との関係があると思われるかもしれません。けれども、実際は、まず他者との関係があって、そこから自分自身との関係が始まっているのです。なぜなら、人が最初に出会うのは、自分自身ではなく、母親という他者だからです。

その重要な共通項を一言で言えば、「とらわれ」という言葉で表現できるかもしれません。思考や感情のワナのようなものに陥って身動きが取れなくなっているのです。それはある意味「視野狭窄」と言えるかもしれません。狭い視点でしか物事を考えることができないわけです。
 もう少し広い視野で考えれば違って見えることなのに、自分という視点や、ある偏った見方でしか見ることができないのです。柔軟性を失い、修正が利かないのも、この「とらわれ」のゆえです。

メディアや通信手段も含めて、どんどん操作可能になる環境は人々を大人にするというより、子どものままに留めてしまう方向に働いてしまいやすいのです。

境界性パーソナリティ障害の症状の第一段階は、現実的な躓きで始まっていることが多いのですが、もっとやっかいな第二段階は、そのことで本人に失望した親の対応が、それをこじらせていることが大部分なのです。
 まず親が自分の失望や傷ついた思いではなく、本人の気持ちに目を注ぐ冷静さを取り戻し、傷ついた本人の心を、本人の気持ちに立って受け止めることができると、少なくともこじれた第二段階の部分は改善して、対応も容易になっていくことが多いのです。

「とことんつき合うよ」という姿勢が本人に伝わり、本人が安心感と信頼感を回復してくると、嵐のような状態がウソのように収まってくるのです。

あまりに最初から熱を入れ過ぎ、すぐにどうにかしようと意気込み過ぎないことです。多くのケースは改善まで何年もの時間がかかります。そのことを頭に入れて、気長に、疲れ切ってしまわないように対応することが大事です。そして、一貫性を大事にしてください。
 小さな子どもを育て直すようなつもりで、赤ん坊からやり直すようなつもりで、覚悟してかかわることが大事なのです。回復には、何年かかかりますが、そういう気持ちで腰を据えて関わらなければ、何十年も苦しむことになってしまいます。

親戚の子を下宿させているようなつもりで接しなさい。

克服の目標はすっかり別の性格になることではなく、もともと持っている傾向を病的な落とし穴に陥らないようにコントロールする力をつけ、バランスの取れた個性として本来の魅力を引き出すことです。

自己愛性パーソナリティ障害の人は短いスパンや狭い視野でしか、満足や利益を考えられない傾向があります。すべてのパーソナリティ障害に共通することですが、自己愛性パーソナリティ障害の人も、今この瞬間の満足・不満足というものにとらわれてしまうのです。

通常、よい治療者は、目の前の症状に対する関心と水面下の問題に対する関心が、ほどよくバランスを取っているものです。

境界性人格障害を始め、多くの人格障害では親子関係の躓きがあり、それが、再現されている状況が見られます。したがって、本人だけへのアプローチは片手落ち片手落ちであり、家族への働きかけが、回復の鍵を握ることが少なくありません。

症状に目が奪われ過ぎず、本人と支え手との関係を安定させることが、改善のポイントです。

何かマジックのように急によくなるということを幻想していると、現実に失望して投げ出してしまうことになります。ある局面ではすごくよくなるけれども、また何かの拍子に同じ失敗を繰り返すということもあります。
 人間はそう簡単には変われないのです。しかし、この堂々巡りを徐々に乗り越えていくうちに、少しずつ、そしていつの間にか大きく変わっているということにつながるのです。

言葉は手を使わなくても、撫でたり、くすぐったり、支えたりすることもできる不思議な道具です。