どうしても、やめられない、
という人の現象というか、
症状に行き会い、
手助けできないことを感じると、
なにかしら、いたたまれなくなります。
それを理解するために、
こんな本を読みました。
「やめられない心」依存症の正体 クレイグ・ナッケン

以下、引用。
私たちほとんどすべての人間は、「幸福感を感じて、心の底からホッとできる安堵感を味わいたい」という根源的な欲求を持っています。多くの人は、日々の生活のなかで時おり心の平安や美しさに満ちた瞬間を感じることもありますが、その感覚はたいてい短時間のうちに消えゆきます。そしていつかまたその瞬間が訪れ、やはりまた去って行く。人生とはそのくり返しであるともいえます。
人間はだれでも何らかの問題を抱えているものです。どんな人にも、苦痛に感じることや、フラストレーションや、思い出したくない出来事はあります。だれでも時には、何らかの方法によって、それらのことに向き合うのを避けようとすることはあります。それはだれにでもあることであり、そのこと自体は大きな問題ではありません。
人をだますのは犯罪だが、
自分をだませば命取りになる。
ポジティブなことであれネガティブなことであれ、私たちが物事の変化について学ぶのは、多くの場合、自分の身に起こることを通じてです。
人間はもととも不完全で無力な存在です。完全なコントロールを追い求めるのは、自分が人間であるという現実を認めたくないことにほかなりません。
アディクションに冒された人は、「人間性」でなく「完全性」を追い求めていると言えます。
人間は単に肉体だけで成り立っているのではなく、精神性によって支えられています。その精神性が蝕まれれば、自分を支えてきたものが崩壊します。
もし私たちが快楽のことばかり考えて人生を生きていれば、私たちは人生の価値を、どれほどの快楽を得られるかで測ることになります。その時、その人は二つのことを追求します。一つは快感をもたらす恍惚感で、もう一つは不安、苦痛などを避けることです。
快楽中心の人にとっては、直面したくないことを避けることが非常に重要になります。その人にとって人生の困難と闘うことが意味がないことになり、困難と闘わなくてはならないような状態になること自体、人生が失敗していることの表れであり、自分に能力がないことを示す印になるのです。そこでその人は、そういう状態になることを避けて、一生懸命快感を追求することになります。
皮肉なことに、もし快感ばかり追求し、快楽のなかに生きようとしていれば、私たちは日々の生活の現実から外れてゆきます。
私たちは快楽を求めれば求めるほど、一度手にした快楽を手放すのを恐れるようになります。
私たちは力を手にすると、それにともなって自信もまた得ることができます。
力(権力)追求型の人にとっては、「コントロール」という形で力を得ることが主要なゴールになります。彼らはより大きなコントロールを得れば得るほど、大きな自信が持てると思うようです。しかし残念ながら、力(権力)追求型の人がそういう形で得る「自信」の多くは錯覚です。そればかりか、そういう「自信」は解決をもたらすどころか、問題を大きくしてしまいます。なぜかというと、力を得ることで手に入れた「自信」は、自分が「一人の人間として存在している」という自信を育てることがないからです。
力(権力)追求型の人にとっては力がすべてなので、彼らは自分に力があることを強く感じさせてくれるような行動が非常に重要だと思い、そういう行動がすべての自信を強めてくれると信じています。しかし事実を言うなら、彼らのそういう行動は「存在の自信」を弱めてしまうのです。そこで彼らは、力の源泉を維持しようとして、ウソをついたり、自分を実際より大きく見せようとしたり、人のアイデアを盗んで自分のもののように言ったり、といったさまざまなネガティブなことをしますが、それがさらに「存在の自信」を弱めてしまいます。
ニセ物でなく本物になる。言葉で言えば簡単ですが、達成するには一生かかります。
私たちは人生の意味を見失ったり、それをまた発見しなおしたりすることによって、その重要さを学び、より意味深い人生を生きる技術を磨くことができます。
人間は、変化を求めながらも、その一方でいつまでも変わらないことを望むという、相反した願望を持っています。
人間はみな人と心のふれ合いを求めています。人との心のつながりこそ、私たちに安らぎを与え、心をはぐくんでくれるものです。
---引用、終わり---
という人の現象というか、
症状に行き会い、
手助けできないことを感じると、
なにかしら、いたたまれなくなります。
それを理解するために、
こんな本を読みました。
「やめられない心」依存症の正体 クレイグ・ナッケン

以下、引用。
私たちほとんどすべての人間は、「幸福感を感じて、心の底からホッとできる安堵感を味わいたい」という根源的な欲求を持っています。多くの人は、日々の生活のなかで時おり心の平安や美しさに満ちた瞬間を感じることもありますが、その感覚はたいてい短時間のうちに消えゆきます。そしていつかまたその瞬間が訪れ、やはりまた去って行く。人生とはそのくり返しであるともいえます。
人間はだれでも何らかの問題を抱えているものです。どんな人にも、苦痛に感じることや、フラストレーションや、思い出したくない出来事はあります。だれでも時には、何らかの方法によって、それらのことに向き合うのを避けようとすることはあります。それはだれにでもあることであり、そのこと自体は大きな問題ではありません。
人をだますのは犯罪だが、
自分をだませば命取りになる。
ポジティブなことであれネガティブなことであれ、私たちが物事の変化について学ぶのは、多くの場合、自分の身に起こることを通じてです。
人間はもととも不完全で無力な存在です。完全なコントロールを追い求めるのは、自分が人間であるという現実を認めたくないことにほかなりません。
アディクションに冒された人は、「人間性」でなく「完全性」を追い求めていると言えます。
人間は単に肉体だけで成り立っているのではなく、精神性によって支えられています。その精神性が蝕まれれば、自分を支えてきたものが崩壊します。
もし私たちが快楽のことばかり考えて人生を生きていれば、私たちは人生の価値を、どれほどの快楽を得られるかで測ることになります。その時、その人は二つのことを追求します。一つは快感をもたらす恍惚感で、もう一つは不安、苦痛などを避けることです。
快楽中心の人にとっては、直面したくないことを避けることが非常に重要になります。その人にとって人生の困難と闘うことが意味がないことになり、困難と闘わなくてはならないような状態になること自体、人生が失敗していることの表れであり、自分に能力がないことを示す印になるのです。そこでその人は、そういう状態になることを避けて、一生懸命快感を追求することになります。
皮肉なことに、もし快感ばかり追求し、快楽のなかに生きようとしていれば、私たちは日々の生活の現実から外れてゆきます。
私たちは快楽を求めれば求めるほど、一度手にした快楽を手放すのを恐れるようになります。
私たちは力を手にすると、それにともなって自信もまた得ることができます。
力(権力)追求型の人にとっては、「コントロール」という形で力を得ることが主要なゴールになります。彼らはより大きなコントロールを得れば得るほど、大きな自信が持てると思うようです。しかし残念ながら、力(権力)追求型の人がそういう形で得る「自信」の多くは錯覚です。そればかりか、そういう「自信」は解決をもたらすどころか、問題を大きくしてしまいます。なぜかというと、力を得ることで手に入れた「自信」は、自分が「一人の人間として存在している」という自信を育てることがないからです。
力(権力)追求型の人にとっては力がすべてなので、彼らは自分に力があることを強く感じさせてくれるような行動が非常に重要だと思い、そういう行動がすべての自信を強めてくれると信じています。しかし事実を言うなら、彼らのそういう行動は「存在の自信」を弱めてしまうのです。そこで彼らは、力の源泉を維持しようとして、ウソをついたり、自分を実際より大きく見せようとしたり、人のアイデアを盗んで自分のもののように言ったり、といったさまざまなネガティブなことをしますが、それがさらに「存在の自信」を弱めてしまいます。
ニセ物でなく本物になる。言葉で言えば簡単ですが、達成するには一生かかります。
私たちは人生の意味を見失ったり、それをまた発見しなおしたりすることによって、その重要さを学び、より意味深い人生を生きる技術を磨くことができます。
人間は、変化を求めながらも、その一方でいつまでも変わらないことを望むという、相反した願望を持っています。
人間はみな人と心のふれ合いを求めています。人との心のつながりこそ、私たちに安らぎを与え、心をはぐくんでくれるものです。
---引用、終わり---










婿取りの39歳。職業は元ナース、Noと言えない性格。夫は同い年のキレ者、長女チコはクールな小心者、次女ユコはホットな無謀者、三女アコは正体不明。