自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ…

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(自分の感受性くらい、茨木のり子)

「ばかものよ」
キビシサを感じつつも、
何となく、心が溶かされていく…

私が、初めて、
この詩を読んだ時の
気持ちです。

自分にしか見えないものを、
見えると言い張っても、
自分にしか聞こえないものを、
聞こえると言い張っても、

それを、みんなに納得させることが
出来ないのなら、
その感じ方、見方、聞こえ方の責任は、
自分でとればいい。

それに強情を張って生きていくよりも、
感じるから出来る生き方、
見えるから出来る進み方、
聞こえるから出来る話し方、
それをしたらいい。

なにゆえ、自分の感受性を、
人に押しつける必要があるのか。
それは、最初は自分のもの…
理解されるには、自分でそれを守って、
育てていくしかない。

あるいは、いい助っ人を
見つけ出すしかない。
それは、利用できる人という意味でなく、
自分の感受性を、さらによりよく
育てる助けをしてくれる人。

独断と偏見に溺れさせるような
助っ人なら、いらない。

感受性は、研ぎ澄まされるまでは、
ダイヤモンドの原石に過ぎない。
研ぎ澄まされて、初めて、
生まれ変わる。

それを避けているなら、
感受性は生きてこない。

【参考】
自分の感受性くらい(茨木のり子)

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