どうであれば幸せで、どうなら…

どうであれば幸せで、
どうなら不幸だというのだ。
どこかに線でも引いてあるというのか。

(ルパンの消息、横山秀夫)

そっちに行っては
不幸になってしまう、
っていうラインが見えたら、
みんな行かないで済むだろうか。

考え出したら
自分がダメになってしまう、
っていうラインがあったら、
その前で考えたり、悩んだりするのを
止められるだろうか。

好きになっていい人と、
好きになってはいけない人のラインが、
ハッキリしていたら、好きにならずに、
お互いの家族を不幸にすることもなく
暮らしていけるのだろうか。

きっと、何かしら、
見える線は引かれている。

しかし、その線は、
見える人によってボヤけたり、
自分に都合のいいように見えたりして、
結局、線がないのと違わないこともある。

不幸になるラインの前で、
くるっと向き直って、
やり直せる人のほうが珍しい。

だいたいは、
そんな線なんてなかったぞ、
どこにあったというんだ?
なんて言いながら、
ラインの先に踏み込んでいると思う。

けれど、
「ほら、ここにあったでしょ」
と突きつけられた時には、
何も言い返せないだろう。

線がないと言い張るよりも、
どこかにあるかもしれない。
って思ったほうが幸せかも。

(参考)ルパンの消息(横山秀夫)

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