傷つけられたときこそ、
生きかたは試される。
(続・生きかた上手、日野原重明)
わが家の家庭菜園にて、
イチゴがたくさん収穫
できるようになった。
こんなふうに
書いてしまうと、
いかにも私が
栽培しているように
思われてしまうかもしれないが、
イチゴを育てているのは、
妻の父、私にとっては義父だ。
何年目のイチゴか
わからないけれど、
義父もかなり腕があがったな、
という気がしている今年。
かなり大きなイチゴが、
それも、かなりおいしく
出来上がっている。
ちょうどよい甘さ。
かなり収穫されるけれど、
出荷はしていない。
わが家で食べるほか、
食べきれないので、
おすそわけしている。
スーパーで売っている、
「とちおとめ」とかにも
劣らないと私は思っている。
今年のイチゴは、ほかの人々にも評判だ。
スーパーでは、
似たような形で
キズのない、きれいなイチゴしか
売られていない。
しかし、実際の収穫を見てみれば、
そういう、きれいなイチゴが半分、
それ以外が半分なのだ。
いびつな形のもの、
キズのあるもの、
表面のつぶつぶが妙に多いもの、
色の薄いもの、などなど…
お店には売られていないレベルのイチゴだが、
味は、まったく変わらない。
なかには、かえっておいしいものもある。
人生も、そんなもんじゃないだろうか。
自己満足のために、
あるいは他人に見せるために、
傷のない、見た目完璧な生き様に、
人は憧れるけれど、無理に、
それを繕えば繕うほど、
幸せ感から遠ざかる。
キズや無駄、失敗、試行錯誤、
そんなことが起こって、
それにどんな味わいを見い出すかで、
人生は変わってくる。
ホントは、どれもみな、
おいしい人生かもしれない。
(参考)続・生きかた上手(日野原重明)
No.4250