
贈り物というのは
相手に受け取ってもらって初めて
贈り物となる。
受け取ってもらえなければ、
それは単なる「お荷物」でしかないぞ。
(ナイト、ロバート・フィッシャー)
…のためにやったんだ、
という言葉を聞くと、
どこか否定したい気持ちが
生じるのは、私だけかな。
押しつけのプレゼントと同じように
感じるからだろう。
年齢を重ねた私ですら、そうだから、
若い世代は、その感覚は、
もっと強いだろうな。
愛している、好きだ、
大切にしている、
それを証明するのは、
本当は容易でない。
しかし、無理に証明しようとすると、
どこかに、虚しいものが混じってしまう。
同じ本に、こんな言葉もある。
「君が本当に善良で、心優しく、
情けが深い騎士であるなら、
なぜわざわさ証明する必要がある?」
「なぜ」「わざわざ」「証明する?」
心をグサっと貫かれるような言葉だ。
そう、何かを証明するために贈るものは、
どこかがズレてしまう。
逆に、何かを証明するために、
贈り物を求める心にも、ズレがある。
お互いに証明を望むとすれば、
それは、どこかに疑いがあるからであって、
贈り物を交わしあったとしても、
それが晴れるとは限らない。
だから、
何かを証明することなんて考えずに、
贈ろうとするものが、
素直に受け取れるんじゃないだろうか。