共依存は当たり前?

共依存っぽい人を見ると、
もう少し、相手の感情の影響を
受けなければいいのになぁ...
と思わされます。

しかし、そういう自分はどうなのか、
と考えてみると、意外と、
その人と、それほど違いがない、
という意実に気づかされます。

わたしって共依存? 、河野 貴代美

この本を読んで、その納得は深まりました。
人は、人とかかわって生きているわけですから、
そうだよなぁ、という感じです。

以下、引用。

いくつかの質問の、体験的な短い例をもって、それが共依存であるかないか、という判断をわたしはできないし、そもそも人と人の関係性は多少なりとも共依存ではないか。

まず、わたしは、そもそも人は人に関わる限り、お互いに依存せざるをえないはずだという信念を持っていることを言っておきたい。そうでなければ関わりや関係などが発生するわけがない。「そこにあるものをとってください」と言うわけでも、頼み・頼まれる瞬時の関係が生じる。なによりわたしたちは、養育者(実親である場合が多い」がいなければ生きていけない共生関係から人生をスタートさせる動物なのである。

関係とは、常に変化し続けるものだから時間の経過がついてまわる。

行き着く先で破綻するもしないも、時間の流れのなかにある。いわば、常に揺れ動きながら続いていく曲線のようなもので、その、ある時期や期間のみを点で捉えて関係を解釈し説明することなど、ほとんど不毛の営為と言える。

人間の行動は、時に論理的な説明を拒絶するもの

関係性は、常に「こういうものである」というお概念定義からは「ズレる」のだ。たとえば「対等で自由な関係」にみえる、あるいは自分たちはそう考えているということはあっても、常に定義づけからのズレを抱えているのが人間の関係なのである。

「愛は盲目」という表現があるが、愛によって盲目になっているのではなく、この場合、盲目がさらなる愛という名の追いかけを呼び込んでいるのかもしれない。盲目である限り、見えない。

一般的に人の言動はパターン化されるので、相手の表情やちょっとした振る舞いをよく観察し、それを記憶すれば、読み取ることは容易に可能になる。それでも絶えず相手の動きに集中していなければならないために、自分自身に注意を向ける余裕やエネルギーはなくなっていく。人のエネルギーの量はその人にとってほぼ一定量で、何かに使えば、別の何かに仕えるエネルギーは減るのである。

現実を直視すれば、多くの人がどこか「空っぽ性」を抱えていることはよくわかるはずだ。それはカウンセラーとて同じである。ただ、それを他人で埋めようと思ったそのとき、「共依存」と呼ばれる関係としてムクムクと出現してくるように思われるのだ。「空っぽ性」は誰との関係にでも存在する要素であって、共依存は決して病理的関係性ではない。

他者に絶対迷惑をかけないで生きていくことなど不可能である

現実を直視すれば、多くの人がどこか「空っぽ性」を抱えていることはよくわかるはずだ。それはカウンセラーとて同じである。ただ、それを他人で埋めようと思ったそのとき、「共依存」と呼ばれる関係としてムクムクと出現してくるように思われるのだ。「空っぽ性」は誰との関係にでも存在する要素であって、共依存は決して病理的関係性ではない。

一般的に、他者を支配したいという要素は、他者を自分と同じような者としてみなすことの結果から生まれるものであり、だから分離しきれていない二者の感情は、地続きのように体験される。たとえば日本で専業主婦となった母親が、娘の教育を生きがいとし、娘の成績や評価を通して、自己実現しようとするようなとき、娘の幸・不幸感を自分のもののように感じることである。

人は、体験を物語る。それらは体験したその人の解釈による物語であろう。同じように見える現実でも、受け取り方や解釈によっては、まったく違った現実になることは周知のことだ。といってもわたしは、その正誤を言いたいのではない。そんな基準はないのである。ただ忘れてはいけないのは、それらは語る人の「現在」の物語であるということだ。

100の家族には100の物語があり、ひとつの家族のなかですら、メンバー数だけの物語があるだろう。その光と影が。

「しすぎ」「させすぎ」の線引きは困難ということだ。依存とは言うまでもなく、人に頼ることである。相互依存と言えば、お互いに頼り・頼られる関係性のこと。

生きることは甘えること
「人の迷惑にならないように」と 子どもに躾ける
だが本当は 人は誰かに迷惑をかけて 生きていくものだ
どんなにがんばっても 無人島か山奥でなければ 人は誰かの恩恵を被っている
それでさえ自然の恩恵を被っている 必ず誰かに迷惑をかけて生きている
だったら 愛する人と依存しあいたい
傷つけることを恐れて 距離をおくのではなく
傷つくことを恐れて 孤独を選ぶのではなく
魂が呼び合った者同士が 共に依存すればいい 素直に甘えればいい
人と人は 素敵な共依存が可能な 最高のパートナーを探して
手に入れる権利がある
依存し合うことが辛く無い そんな相手を見つけられる
きっといつかめぐり逢う 必ずめぐり逢う

心理学は学問の一つに過ぎません。
それがすべての事柄に当てはまるわけでもなく
ある意味、人はすべて何かの傾向を持ち合わせているわけであり、
それが病的かどうかというのは、その人本人が苦痛と感じたり
その状況にいる自分が嫌いだと感じたりしなければ、
ある意味、その人にとっての幸せであり、「普通」なのだと思います。

夫婦とか恋人っていうのはね、良い意味での「共依存」で繋がれるとそれはとても幸せな関係なんだよ

人は学習を最大のよりどころとする動物であるから、幽霊だと思い込んで近づかなければ、それが単なる枯れ尾花であるという事実は、その人にとっていつまでたってもわからないまま。そしてひょっとして枯れ尾花であるという事実以上に枯れ尾花になにがしかのメリットがあったとしても、近づいて確認しない限り、それを見逃してしまうのである。たとえば「うーん、幽霊に見えるほど芸術的な姿だ。写真にとっておこう」などのようにはできないわけである。

不安な人は学習能力が高くない。なぜなら不安で占められたこころには、勇気や親密さのような、人を力づけてくれる気持ちを入れるスペースが少なく、それらがなかなか入ってこないのだ。

人の感覚や感情は主観的である。もちろん他者の感覚を想像することはできるし、それは人として最高の資質と考えてよいだろう。しかし、どれだけ想像できても、その働きは自分という限られた範囲を超えられない以上、その人と同じように感じることも考えることもできない。自分の主観性のなかにとどまり、他者を思いやっているとしても、それは勝手な配慮にしかならない場合も多い。

他者との関係性がわたしという人間(パーソナリティ)...わたしの消極性は、その対象になった人に対して振る舞われた行為であるから、その人がいなくなれば、消えてしまう。つまりわたしの消極性は、わたしの内部にあると言うより、人々との関係のなかにあって、立ちあらわれているのである。そしてたとえば消極的であるわたしは、そのようなわたしとして見出されると同時にわたし自身が関係において作り出してもいるのである。恐れ、不安、あるいは逆の楽しさや勇気という情緒すらその相互作用のなかで、そのように感じられることとして自分の感情生活を作り出している。

わたしの「わたし性」は、他者との相互作用のなかにあり、わたしの内部に見出される実体ではないのだ。