だれもが自分の主だよ。
…
おれはおれだけの主だ。
だから好きなことをする。
ただそれだけのことだよ。
(これは王国のかぎ、荻原規子)
好きなことができる。
好きな生き方ができる。
人生には、本来、
そういうものが準備されている。
しかし、何となく、
そんな自由なんてないような気もする。
なぜなんだろう?
どこからか、少しずつ、
自由が狭められているんだろうか。
主(あるじ)なら、自分の思いのままに、
物事をすることができるはず。
しかし、使いの者には、
それがゆるされない。
主は、自由なはず。
そして、それに伴う責任もある。
しかし、使いの者は、
自由が制限される。
その代わり、責任も軽い。
何かを他人に期待したり、
依存したり、頼ったりし始めた時から、
少しずつ、主でなく、
使いの者になっているのかもしれない。
そもそも、生まれた時には、
完璧に依存している私たち。
たとえ、物心がついて、
その依存に気づいても、
自力で、少しずつ
それから離れることを望まないかぎり、
主には、生まれ変われない。
「使いの者」の精神が
染みついている。
「だれもが自分の主」という
ルールの中で生きるためには、
その矛盾を壊すことから始めなければいけない。
ちょっとたいへんだけど、
それを壊して初めて、
「主」の意味が分かるからなんだろうね。
【参考】
「良い仕事」の思想(杉村芳美)