余は今まで…誤解していた。…

余は今まで…いわゆる
悟りということを
誤解していた。

悟りということは、
いかなる場合にも、
平気で死ぬることかと
思っていたのは間違いで、

悟りということは、
いかなる場合にも、
平気で生きていることであった。

(病牀六尺、正岡子規)

「いつ死んでも、悔いはない。」

たしかに、格好いい言葉であり、
悟りに近い心境かもしれない…

死を覚悟するというよりも、
死を恐れずに生きるという意味で、
そうありたいものです。

こんな話を聞いたことがあります。

首つり自殺を図った人が、
首をつりながら苦しんでいる最中に、
ロープが切れて、落ちてしまった。
そして一言。
「あああ、死ぬかと思った。」

笑い話にもなりますが、
この人は、幸いにも、
生きる苦しみも大変だけど、
死ぬ苦しみもかなり大変だと、
というのを経験できたわけです。

みんながみんな、
そんな経験を出来ればいいけれど、
今は、理解しがたいことが起きます。

インターネットなどによって、
一緒に死を越える仲間を
見つけることができ、なおかつ、
簡単で楽で確実な方法があるから。

そんな方法を選んだら、
たしかに、鈍りますよねぇ。
生きていることの意味も苦しみも、
そして、死ぬことの意味も苦しみも。

「平気になる」って、
良いことばかりでないなぁ、
と思いました。

ちなみに、私にも、
「平気でない」ことがあります。

あまり歓迎したことではありませんが、
昨今の風潮や、今日の言葉を読んで、
「平気でない」ことがあるのは、
いいことかもなぁ、と思い直せました。

【参考】
病牀六尺(正岡子規)


こころの処方箋(河合 隼雄)

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